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高山寺の概要
創建が奈良時代に遡る高山寺は、世界遺産、「古都京都の文化財」の構成資産の一つ。京都市右京区栂尾(とがのお)の自然美と共生する古刹です。日本最古の茶園があることや、国宝の鳥獣人物戯画で知られる高山寺は古くから人々の感性を惹く存在でした。デュークエイセルの唄「女ひとり」の歌詞や高浜虚子の俳句、川端康成、白洲正子や河合隼雄の著書など多くの著名作でダイレクトにその名が紹介されています。
構成資産にみられるのは平安時代、鎌倉時代、江戸時代と各時代が残した明慶上人樹上座禅像、石水院、仏眼仏母像、華厳宗祖師絵伝、冥報記、と多数の国宝、重要文化財。これらは歴史の足跡をふんだんに残すものであると同時に、高山寺の祖である明恵上人に対して時代をまたいで注がれた人々の絶えぬ感謝の意を示します。
高山寺の歴史
華厳教由来の高山寺。キーパーソンとなる明恵(みょうえ)上人を中心に1000年を超える歴史の中でその立場は微妙に揺れる運命を辿ります。
奈良時代(774年)、光仁天皇の勅願を受け開創。創建後すぐに「都賀尾十無尽院」と改称し、神護寺の別院となります。その後、建永元年(1206年、鎌倉時代初期)に明恵上人が、後鳥羽上皇の勅令「日出先高山之寺」を受け華厳興隆のほうびに栂尾の地域を賜ったことで高山寺として再興。明恵上人は養和元年(1181年)の入山以来、寛喜4年(1230年)に息を引きとるまでの生涯を仏道に捧げ、一心に華厳宗の興隆に務めました。
その後迎えた戦国期の中で例に洩れず戦禍に巻き込まれる高山寺。山名軍による占拠に始まり、江戸期中盤にかけては金堂や開山堂、禅堂院等多くの重要な建造物が相次いで戦火の餌食になります。この苦境においてこれらのいち早い復興に務めたのは秀融・永弁と二人の上人でした。
明治時代に入ってからは華厳宗本山高山寺と名付けられますが、すぐに真言宗の所轄となり御室派となります。昭和時代には文部省により史跡の指定を受け単立寺院として独立、温室派を離脱。平成に入り世界文化遺産に登録されます。
時の中で立場が異なってきた高山寺ですが、人々の信仰心、特に明慶上人に対する尊敬の意が変わらずあり続けたことが世界遺産登録の結果から垣間見えます。
高山寺の見どころ
華厳宗中興の祖、明恵上人
高山寺の存在は明恵上人なくして有り得ません。東大寺尊勝院学頭に補任されたほどエリートの明恵上人。9歳から親元を離れ華厳を学び真言密教を修めます。これを自ら正そうと奮闘しました。なにもせずともひたすら祈れば救われる、という法然の一向の信仰の仕方が流行っていた世の中で、自己を戒め修行に励むことこそ仏教の道、と戒律の重要性を自ら日々瞑想に打ち込むことで示唆。更に著書『催邪輪(ざいじゃりん)』にて法然の本来の仏教から離れた信仰態度を直接批判しました。
こうした明恵上人の教えを慕った後継者達が本来の仏教で徳とされる戒律復興に務め、高山寺の気品を維持し、後の大徳者の排出につながります。
国宝、鳥獣人物戯画
高山寺を代表する宝物である鳥獣人物戯画は、筆による軽快なタッチで描かれた作者未詳の当時のいわゆる「紙芝居」。現存物は甲乙丙丁の4巻から構成され、甲乙巻は平安時代後期、丙丁巻は鎌倉時代に制作されました。
白眉である甲巻には擬人化された兎や猿、鹿、蛙の遊戯がユーモラスに描かれ、乙巻は現実と空想が合わさった動物図鑑となっています。
丙巻には囲碁や双六に興じる僧や稚児の様子、擬人化された動物の様子が、丁巻には人間のみが登場し、勝負事の風景が描かれます。いずれも時代の風俗を描いた歴史の記録書であると共に、当時の人々を楽しませる貴重なエンターテイメントでした。
日本最古の茶園
日本で初めてお茶がつくられた場所で知られる高山寺。栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を受理した明恵上人が山内でこれを育てたところ、修行の妨げである眠気を覚ます効果があることが分かり、僧たちにひろまりました。中世以来、栂尾の茶は本茶、それ以外は非茶と呼ばれていることから、この地の茶は特別格式が高いことが分かります。
現在も5月中旬に行われる茶摘み。毎年11月8日の午前中には開山堂で執り行われる献茶式では日本の茶祖である明恵上人に新茶を献上します。このイベントでは明恵上人はじめ茶業界の偉大な故人達に感謝の祈りが捧げられます。