長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

Hidden Christian Sites in the Nagasaki Region

"kashiragashima tensyudo" © TsuruSho7 Licensed under CC BY 4.0

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の概要

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、長崎県および熊本県の天草地方における潜伏キリシタンの活動に関する世界遺産です。長崎とその島々および天草周辺に点在する集落や建造物など12の資産から構成されています。安土桃山時代から明治時代にかけて、時代に翻弄されつづけたキリシタンたちが、キリシタンであり続けるためにこの地にて潜伏して継承した独自の伝統がいまも残されており、2018年に 世界遺産として登録されました。

世界遺産に登録された理由

長崎と天草地方の潜伏キリシタンたちが250年以上続いた禁教期に密かに信仰を継続し、そのなかで育んだ独特の宗教的伝統を物語る貴重な資産です。ほかにはみられない証拠であり、普遍的な価値があるとして 2018年に登録されました。

歴史

1543年の鹿児島への鉄砲伝来、1549年のフランシスコ・ザビエル(1506-52)の鹿児島でのキリスト教布教開始など、九州地方はヨーロッパの影響を早くから受けた土地です。時の政権・織田信長(1534-82)はキリスト教を保護、長崎地方の大名大村忠純(1533-87)はポルトガル貿易推進のために1563に大名として初受洗、1579年には長崎をイエズス会に寄託し、神学校および10もの教会が作られました。

しかしキリスト教を恐れた豊臣秀吉は1587年にバテレン(宣教師)追放令発布、それにもかかわらずイエズス会は活動を続行し 、徳川家康はさらに1612年に禁教令を発布して大迫害を行い、信徒を次々と殺害または仏教や神教に改宗させました。

このような歴史を背景に、長崎と天草地方には迫害を逃れたキリシタンたちがさらなる弾圧を恐れて潜伏キリシタンとなり、ひそかに信仰を守っていきました。そして日本の社会情勢とうまく折り合いながら信仰を続けるための独特の伝統が250年のあいだ育まれていったのです。

日本の情勢が変わって1858年、開国により外国人居留地が設置されると、宣教師によって外国人のための大浦天主堂が建設されました。日本におけるキリスト教信仰は、長い禁教の時代により完全に失われたと思われていましたが、1865年3月17日、教会を訪れた日本人が信仰を告白してキリスト教会は喜びに包まれました。まだ禁教令下であったため、キリシタンへの弾圧が再び加えられ、これに対して欧米の非難が相次ぎ、信仰が黙認されるようになっていきます。

構成資産と時間推移

潜伏のきっかけ 原城跡(熊本県天草市)

1637年2万数千人がキリスト教容認を求めてたてこもった「島原・天草一揆」の舞台です。ひそかに信仰を継承していた潜伏キリシタンたちが、領主の激しい支配に対して天草四郎を中心に一揆をおこし、4か月の籠城のち幕府軍に全滅させられました。城は再蜂起を恐れて全壊され残っていませんが、いまも遺跡からは十字架などが出土しています。この一揆でキリスト教へのますますの恐怖を募らせた幕府は、鎖国を始めて宗門改め、絵踏みなどキリシタンの取り締まりを強化。キリスト教徒たちは1644年に最後の宣教師が殉教したのちは、自分たちだけでひそかに信仰を続けていきました。

潜伏し信仰を実践するための試み

迫害を恐れ、信仰が露見しないように仏教徒をよそおい、洗礼や葬式などをひそかに行うという営みが何世代にもわたって継承されていきました。そのなかで既存の社会や宗教とともに生きることを選び、独特な宗教的伝統が育まれていったのです。

平戸の聖地と集落(長崎県平戸市、春日集落・安満岳、中江ノ島)

昔から山岳信仰の伝統で崇められていた安満岳をキリスト教の聖なる山としても拝み、またキリシタンが殉教した中江ノ島を聖地として拝礼し聖水を汲むなどしました。

天草の崎津集落(熊本県天草市)

アワビの貝殻などを利用してメダイや十字架などを加工して信仰の道具とし、身につけたりしていました。また崎津諏訪神社は神社ですがキリスト教の祈りがささげられていました。

外海の出津集落および大野集落(長崎県長崎市)


キリスト教の聖画像などをひそかに祀り拝んだり、日本語のカトリック教義書などを伝承しました。キリシタンを祀って信仰した角神社があります。

潜伏を維持していた時期

キリシタンたちは迫害を逃れて離島に移住した人も多くいました。キリシタンが露見しないようにしつつキリシタンの信仰を継続するためにさまざまな工夫がなされました。

黒島の集落(長崎県佐世保市)

牧場跡に開拓目的で移住したキリシタンは、寺院の檀家として溶け込み信仰を続けました。寺院内に聖母マリアにみたてた観音像を拝んだりしていました。

野崎島の集落跡(長崎県北松浦郡小値賀町)

従来は神道の聖なる島であったところに移住してきたキリシタンたちは、神社の氏子として活動するとともにキリシタンの共同体をも維持していました。

頭ヶ島の集落(長崎県南松浦郡新上五島町)

さらなる迫害から逃げるため、周囲から隔たった無人島にあえて開拓移住したキリシタンによって集落が形成されました。

久賀島の集落(長崎県五島市)

迫害や人口増により五島藩の政策に従って島の未開発地に開拓移住したキリシタンの島です。仏教徒とともに水田などを開発するなど、共存共栄していきました。

宣教師との接触と潜伏のおわり

1865年の大浦天主堂における「信徒発見」が大きなきっかけとなり、潜伏が終焉を迎えます。

大浦天主堂(長崎県長崎市)

正式名称「日本二十六聖殉教者聖堂」 は、開国後フランス人宣教師によって居留地の外国人のための教会として建てられました。創建まもないころ、まだ日本人のキリスト教信仰が認めらえていない1865年、潜伏キリシタンがここで宣教師に信仰を告白し、この「信徒発見」のニュースは東洋の奇跡としてバチカンに書簡で伝えらえました。これを機にキリシタンのへの弾圧が再開し、欧米からの抗議で1873年切支丹禁制高札廃止を行い、以後が布教が黙認されていきました。

奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺、長崎県五島市)

禁教期に移住によって集落が形成され、布教黙認後にカトリックに復帰した信者たちが自らの資金で建てた教会堂です。信仰を白日のもとに表せるようになった潜伏状態の終焉を具体化しているシンボルといえます。建物は地形や気候に合わせた工夫がされており、長崎・島原の潜伏キリシタン集落のかつての潜伏場所に建てられた代表的な教会です。

国名 / エリア アジア / 日本
登録年 2018年
登録基準 文化遺産 (iii)
備考 ■関連サイト
Hidden Christian Sites in the Nagasaki Region(UNESCO)

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