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概要
アウシュヴィッツ=ビルケナウの強制・絶滅収容所は、ポーランド南部オシフィエンチム市に位置する2つの収容所(当時は第3収容所もあった)で、第2次世界中にナチス・ドイツのユダヤ人絶滅政策(ホロコースト)で最大級の犠牲者を出しました。
当初のターゲットは反ナチの人々、反社会分子(暴力団、売春婦、同性愛者、アルコール中毒者など)が中心でしたが、1942年以降はユダヤ人が最大の標的とされました。不衛生な環境、不十分な食事、長時間の強制労働、有毒ガスの実験など悲惨な環境の中で非常に多くの人々が亡くなりました。
現在残されているこの強制・絶滅収容所は、写真や人々の所有物を含めて博物館として公開されていて、世界中から多くの人々が訪れています。1979年に、2度とこの人類が犯した過ちを起こすことがないようにと、世界遺産に登録されました。
強制収容所の歴史
1933年に首相に任命されたアドルフ・ヒトラーは、就任直後から反ナチに対する取り締まりを始め、国民の権利を停止し、支配を拡大しました。そうした中で戦争前には、強制収容所が建てられ左翼の政治家や活動家が収容されました。このときは人種的な理由からの収容ではなく、左翼思考からでした。プロイセンやバイエルンで警察、突撃隊、親衛隊による逮捕者が増えていく中で、強制収容所の数も拡大していきました。
1934年に州秘密警察(ゲシュタポ)の指導者がヘルマン・ゲーリングから親衛隊のハインリヒ・ヒムラ―へと変わると、その頃から反社会分子の逮捕も増えていくことになります。1938年からはユダヤ人も同様の理由で逮捕されるようになっていきました。
第2次世界大戦が始まると、ナチス・ドイツがヨーロッパほぼ全域を占領するようになったため、同時にヨーロッパ各地に強制収容所が建設されました。中でも最大の収容所はアウシュヴィッツ=ビルケナウでした。時期や収容所によって待遇が異なり、貴重な労働力を提供したとされる収容所には食料の支給はうるおい、制限も比較的緩やかでした。
1942年に、ヒトラーはヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることを決意し、「ユダヤ人問題の最終解決」を宣言しました。ここで強制収容所兼絶滅収容所とされたのがアウシュヴィッツ=ビルケナウで、ここではガス実験が行われました。ナチスの収容所に送り込まれた人の数は明確ではありませんが、800万から1000万人であったとされています。1944年以降、各地の強制収容所はアメリカ、イギリス、ソ連軍により解放されることになりました。
世界遺産登録経緯
アウシュヴィッツ=ビルケナウ-ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所には、人類が人類に対して行なった、歴史的に非常に悲劇的な犯罪の1つである証拠が残されています。アウシュヴィッツ=ビルケナウの敷地内は現在では博物館として使われていて、建物や有刺鉄線、人々の所持品だったもの、髪の毛などもそのままの状態で残されています。
ホロコースト、人種差別、野蛮な行為が起こってしまったこの時代について、今後2度と同じ過ちを起こさぬよう、後世に語り継がれるべきあるものとであるとされ、1979年に世界遺産に登録されました。
必見ポイント
鉄条網
収容された人々が逃げ出さないように、アウシュビッツには何重もの鉄条網が張り巡らされ、それは現在でも残されています。鉄線には200Vもの電流が流されていたため、逃げることはほぼ不可能。中には悲惨な収容所での暮らしから逃れるため、自ら感電死する人もいました。
焼却炉とガス室
ナチスは、1939年後半から有毒ガスの実験を開始しました。これは、ユダヤ人問題の最終解決を達成するためには効果的でした。当初は、化学的につくられた一酸化炭素が各地の強制収容所で使われていましたが、ナチスは、最終的にチクロンBが効果的にユダヤ人を絶滅させることができるという結論にたどり着きました。アウシュビッツ強制所では、多い時には毎日6000人ものユダヤ人がガス室に送り込まれ亡くなりました。その後、死体は被収容者が運び隣の焼却炉で焼かれました。
当時使われたガス室は破壊されてしまったため、現在アウシュビッツで見学ができるガス室は復元されたものとなっています。
博物館
博物館は、当時使われていた建物を改装し使われていて、写真と遺品を通して当時の歴史を物語っています。この博物館で、特に衝撃的なものは展示されている遺品です。ガス室で使われたチクロンBの空き缶、人々が使用していたメガネ、靴、中には髪の毛と、当時使われた物品がそのままの状態で展示されています。それぞれの数も相当なものから、非常に大勢の人々が犠牲になったことがわかります。