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醍醐寺(だいごじ)の概要
醍醐寺は、「古都京都の文化財」構成資産の一つで、醍醐山全体が醍醐寺の敷地となっています。山上の「上醍醐」と平地の「下醍醐」に大きく分かれています。国宝6棟(上醍醐の薬師堂、清瀧宮拝殿、下醍醐の五重塔、金堂、三宝院の殿堂表書院、唐門)の他、9棟1基の建造物が重要文化財に指定されています。
さらに下醍醐は、三宝院(さんぼういん)・霊宝館(れいほうかん)・伽藍(がらん)の3エリアに分かれ、一つの拝観券で3つ全て周ることができます。下醍醐へのアクセスの一例として、市営地下鉄東西線「醍醐駅」から徒歩10分程度で到着します。周囲に駐車場は少ないので、公共交通機関を利用しましょう。京都駅からバスも出ています。
毎年2月23日には「五大力さん」として親しまれる「五大力尊仁王会(ごだいりきそんにんのうえ)」が催されます。不動明王など五大明王の力を授かり平和や幸福を願う行事です。この日限定で授与される災難・盗難除けのお札「御影(みえい)」はご利益が顕著であると有名で、お札を求めて早朝から夕刻まで絶えない行列ができます。
醍醐寺の歴史
平安時代初期に、聖宝理源大師(しょうぼうりげんだいし)が醍醐寺開創の第一歩を踏みました。ある日聖宝が東の方を見ると、五色の雲が浮かんでいるのが見え、その雲に誘われ山を登って山頂に辿り着いた時に「まるで生まれ故郷に帰ったような思いがした」そうです。
近くで老人が一人、「甘露、甘露、ああ醍醐味なるかな」と言って湧水を飲んでいました。聖宝がこの老人に寺院を建立したいことを伝えると、老人は「私は地主で横尾大明神である。この地を差し上げ、長く守護してあげる」と言い姿を消したそうです。 この「醍醐味」が醍醐寺の名の由来とも言われています。
上醍醐は874年に、下醍醐は904年に整備が始められます。907年に醍醐天皇の命によって「勅願寺」となりますが、15世紀には火災によって建物のほとんどが焼失してしました。16世紀から17世紀にかけて、豊臣秀吉が「醍醐の花見」と言って自らも尽力し、移築再建や築造をしたことによって現在の姿となりました。
見どころ
三宝院(さんぼういん)の庭園
1598年に、豊臣秀吉が大規模な花見を催すために直接指示して作らせた庭園です。建物内部からの景色が重視されおり、今も桃山時代の華やかな雰囲気を伝えています。池には、亀の甲羅のように見える「亀島」と、鶴が飛び立とうとしているように見える「鶴島」があります。
その他にも、川の状態を表す「賀茂の三石」や深山の趣を加える「三段の滝」など、秀吉が考え設計した美しい庭園を見ることができます。
醍醐寺発祥の「霊水」
横尾大明神が醍醐味(最高の味)とした湧き水です。この霊水は醍醐水とも呼ばれ、醍醐寺開創当時から現在まで枯れることなく湧き続けています。霊水は誰でも飲むことができます。登山道を登った場所にあるため、疲れた体を癒すことができるでしょう。
五重塔
952年に完成した京都最古の木造建造物です。醍醐寺で唯一、創設当時の姿をとどめていて、建造物として大変貴重です。その雄大で安定感のある姿は、見る者の心を釘付けにします。しかし、建造物としてだけでなく、五重塔の初層内部に描かれた曼荼羅 壁画も非常に価値があります。
紅葉に囲まれた弁天池
醍醐寺は「醍醐の花見」として、春には桜の花見で賑わいますが、秋には「醍醐のモミジ狩り」があります。醍醐寺の中でも「弁天池」は紅葉の名所とされます。弁財天を祀る弁天堂が、紅葉とともに池に写り込む姿は人々を魅了します。
豊臣秀吉は花見のために醍醐寺を自ら設計しましたが、「醍醐の花見」の後、「醍醐のモミジ狩り」を迎えることなくその生涯を終えました。醍醐寺の紅葉は、秀吉が後世の人々に残した形見であるとも言えます。
備考 | 「古都京都の文化財」の構成資産 住所:〒601-1325 京都市伏見区醍醐東大路町22 |
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