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興福寺の概要
世界文化遺産に登録されている興福寺。そのはじまりは大化改新の頃に遡ります。最盛期には175もあったといわれる寺の建物。現在は五重塔、東金堂、北円堂、南円堂等が存在しています。興福寺は藤原氏の氏寺でもあり、宗教的にも政治的にも重要な役割を担っていました。エリア内には国宝に登録される多くの仏閣、彫刻作品が残されており、国宝仏像保有数は国内トップ。
聖武天皇はじめとする歴史上の要人が残した東金堂等の建築物、時代を風靡した慶派、運慶らの作品である木造弥勒仏坐像と、挙げたらきりがありません。その一つである阿修羅像は天平文化の代表作品。聖武天皇の妻、光明皇后の亡くなった母をしのぶ想いにより、命を受けて彫像されました。
福を興す、と名の通り平和な現世と愛する人々の死後の幸せへの願いを込められた興福寺。節分や鬼追いなど古来の日本文化を伝える行事を見ることができるのも魅力です。
興福寺の歴史
興福寺の歴史は古く、そのルーツは日本の歴史が動いた大化改新の年、645年(大化元年)に中臣鎌足が造立した釈迦三尊像に遡ります。その後、鎌足の妻鏡大王が造営した山階寺にこれを安置。この山階寺が興福寺のおおもとです。
672年、飛鳥浄御原宮に遷都の頃、山階寺は名を厩坂寺としました。710年 、平城京遷都の際、鎌足の子、藤原不比等は厩坂寺を興福寺と名付け現在地である平城京の左京に移します。ここから800年代にかけて元明、元正、聖武、光明と諸天皇、皇后や初代蔵人頭となった藤原冬嗣により、北円堂、東金堂、西金堂、南円堂、多くの仏閣や像が造立。
しかし1000年代、戦国期に突入し情勢が不安定になるとこれらの多くは焼失してしまいます。1180年、興福寺はついに平重衡の兵火を浴びて全焼。それでも国にとっての要所であり、人々の信仰心が絶えなかった興福寺。翌年から本格的な再興の宣言がなされ、失った施設、仏像の再建と供養が進められます。
焼失を繰り返しつつも政治的な権威を維持した興福寺は鎌倉時代以降、守護職の実権を認められ大和国を統治。1595年、神仏習合の隆盛期には春日社領として2万1千石余を直轄します。1868年 に神仏分離発令ののち、翌翌年の1870年に寺社上知令が発令。これにより堂塔除く全ての寺地が国に没収されてしまいます。
1881年、興福寺再興許可が下りてからは仏閣の修理が進められ、防災工事も施されました。1992年 、興福寺境内整備委員会発足以後はさらに本格的な改修がスタート。この苦労あって、1998年、興福寺は「古都奈良の文化財」としてユネスコの世界文化遺産登録に至りました。
興福寺の見どころ
国宝館
僧侶の食堂(食堂)を改築し、昭和の時代に耐火式宝物収蔵庫として建てられた国宝館。地下には奈良時代以降の旧食堂の姿が遺構としてそのままの形で残されています。中には興福寺の歴史を伝える阿修羅像等の仏像彫刻、絵画等の美術品、歴史的遺物が収蔵されています。
三面六臂 阿修羅立像
興福寺に国宝として国宝館に納められる阿修羅像は、八部衆(釈迦に仕え仏教を守る八種の神)の一人。光明皇后の命を受け、西金堂建立時に納められました。
本来阿修羅は戦いの神なので、勇ましい怒りの表情をしているもの。しかし興福寺の阿修羅は眉をひそめ、悲しいような、安堵するような絶妙な表情を浮かべています。それは、これまでの戦い(=修羅場)から足を洗い仏道を歩むことを覚悟した阿修羅が、釈迦に帰依して戦闘神としての自分を懺悔、反省し迷いから目覚め再出発する瞬間を描いたからです。
インドでは熱と渇きを招く太陽神として、善の神である帝釈天と戦う悪の戦闘神とされた阿修羅。善に逆らい、幾度の戦いを挑み、敗北を繰り返していました。仏教界に取り入れられてからの阿修羅は釈迦の守護神として祀られます。
千手観音菩薩立像
国宝館に安置される千手観音は鎌倉時代再興期の食堂本尊。5メートルに及ぶその身は寄木造に漆塗で構成されています。千は当時の人々にとって は無限の数であり、千手はあらゆる手を尽くして人々を救う観音菩薩の慈悲深さを表しています。
中金堂
興福寺伽藍の中心となる、最重要建物の中金堂。6回の焼失と再建を繰り返した中金堂は2018年に1717年の焼失以来300年ぶりに再興され落慶を迎えます。焼失以前の旧中金堂は奈良市内で東大寺大仏殿に次ぐ大規模寺格でした。
内部には、本尊・丈六釈迦如来像、薬王・薬上菩薩像、四天王像が焼失前と同様の配置で安置されています。また、堂内でひときわ目を引くのが法相柱。法相宗の教義「唯識」を確立、発展させた祖師14人が描かれています。こちらも焼失前の旧金堂に存在したとされる柱を再現されたもの。 西遊記でおなじみ、三蔵法師などが立像と 坐像とに描き分けられています。
備考 | 「古都奈良の文化財」の構成資産 |
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