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ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域の概要
79年の8月24日にヴェスヴィオ山が大噴火し「ポンペイ」「エルコラーノ(ヘルクラネウム)」「トッレ・アンヌンツィアータ」の街が飲み込まれました。16世紀に入り遺跡が一部発見され、18世紀に本格的な遺跡の発掘調査が行われます。この発掘調査により奇跡的に保存状態の良い壁画などが発見され、人類の歴史や考古学的側面からも重要だとされ、「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」は1997年に世界文化遺産に登録されました。
歴史
大噴火が起こる前、ヴェスヴィオ山は何度も噴火を繰り返していました。1世紀に入りポンペイ地区に地震が頻発するようになり、62年2月5日にポンペイを中心としたマグニチュード8.0の大きな地震が発生。この地震によってポンペイ周辺の地域は壊滅的な被害を被ります。
この大地震によって人々は避難を余儀なくされますが、被害が落ち着いて家に戻ると泥棒に入られており財産を失った人々が多発しました。この出来事が大噴火の被害を大きくしたと言われています。
大地震が起こった17年後、ヴェスヴィオ山の大噴火が発生。13時ごろに噴火が始まり19時間もの間噴火が持続しました。この大噴火によって2000人もの人々が犠牲となってします。これは17年前の大地震で泥棒の被害を受けた苦い経験から、避難しなかった人や避難してもすぐに家に戻ってきた人々がいたからです。
ポンペイ、エルコラーノ(ヘルクラネウム)の発掘
16世紀の終わりに建築家のドメニコ・フォンターナが水路を建設していた際に壁画を発見。当時はポンペイの遺跡だと分かりませんでした。これ以降発掘は行われていませんでしたが、1738年にエルコラーノ(ヘルクラネウム)が発見されます。
その後1748年にナポリの王であったブルボン家のカルロ王によって、ポンペイの発掘調査が命じられポンペイの街が再発見されました。ポンペイ遺跡は66haあるとされていますが、現在までに約44haが発掘されています。
見どころ
ポンペイ古代遺跡
紀元前80年にポンペイはローマ植民都市となり、ローマの富裕層がポンペイに別荘を建てるようになります。当時は港町であり地中海貿易の拠点として発展。商業施設やレストラン、神殿、浴場、闘技場などが建設され、商業都市として繁栄しました。
発掘された遺跡には壁画もあり街並みや壁画などから、古代都市として発展していった生活の実態も分かるようになりました。まるで火砕流(かさいりゅう)に飲み込まれる前の古代都市にタイムスリップしたような景色を見ることができます。
1863年に火山灰の中に空洞があることが発見され、考古学者のジュゼッペ・フィオレッリによってその空洞に石膏(せっこう)を流し込み、犠牲者の最後の姿を復元することに成功しました。
エルコラーノとトッレ・アヌンツィアータ
エルコラーノとトッレ・アヌンツィアータもポンペイ同様ヴェスヴィオ山の大噴火によって飲み込まれた街。エルコラーノは別名「ヘルクラネウム」といい、ギリシャ語で「ヘラクレスの町」という意味。リゾート地として栄え、貴族の別荘などが建ち並び豪華な建物や華麗な装飾が綺麗に残されています。ポンペイと比べ規模は小さいですが、建物の保全状態が良く、より一層古代ローマの人々の生活を肌で感じることができることでしょう。
トッレ・アヌンツィアータは、古代ローマ皇帝であったネロの妻であるポッペアの別荘があった街。1964年から発掘が開始されました。オプロンティスの遺跡が有名で、華麗なフレスコ画の壁画やモザイク画の美しい床を見ることができ、当時のローマ帝国市民の裕福な生活を垣間見ることができます。
国名 / エリア | イタリア / ヨーロッパ |
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登録年 | 1997 |
登録基準 | 文化遺産 (iii) (iv) (v) |
備考 | ■関連サイト Archaeological Areas of Pompei, Herculaneum and Torre Annunziata(UNESCO) |