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マカオ歴史地区の概要
マカオ歴史地区は中国特別行政自治区にあたる旧市街で、かつてポルトガルの植民地であったことを象徴する22の歴史的建造物と8の広場からなる世界文化遺産です。
マカオ歴史地区の情緒あふれるノスタルジックな景観からは、ポルトガルにより国際貿易におけるアジア進出の拠点として繁栄した、大航海時代の歴史を感じとることができます。またカトリック布教の拠点としても歴史は深く、街を歩いていると聖堂や修道院が多く見られるのもその証拠です。
具体例としてマカオの象徴と言われる聖ポール大聖堂や、イエズス会宣教師育成の場であった聖ヨセフ修道院が挙げられます。ヨーロッパの町並みを思わせる建築や広場と中国の伝統的な寺院の混在は、まさに西洋文化と東洋文化の融合の表れでしょう。
マカオ歴史地区は建築物だけではなく、異なった様式や宗教、食文化などが現在も共存し、今もなお人々の生活の中に溶け込んでいます。
歴史
広東省や福建省からやってきた人々が暮らしていたマカオに1513年、ポルトガル人が初めてたどり着き、16世紀半ばにはポルトガルの租借地として街を形成していきました。
ポルトガル人定住後、マカオは日本・明国の中継貿易で富を築いていきましたが、豊臣秀吉によるキリスト教迫害の時代が到来し、その後も徳川家康による鎖国令が出され、マカオは衰退していきます。
その後、清との外交通商政策やアヘン戦争などを通して衰退と繁栄を繰り返していく中、列強各国のアジア植民地の動きがマカオに襲い掛かりました。こうして長年続いていたポルトガルとマカオの関係は、租借地から植民地となっていったのです。
1941年に起きた第二次世界大戦時、ポルトガルは中立国であったため、中立港として機能していました。
1949年には、国共内戦に勝利した毛沢東のよって中華人民共和国が設立されましたが、依然としてポルトガルの統治下にいたのです。
時代は過ぎ1974年、ポルトガルはすべての海外領土を放棄することとなり、最終的には1987年4月13日。ポルトガルと中華人民共和国がマカオ返還の共同声明に調印しました。
こうしてマカオの行政権は、1999年12月20日に中華人民共和国へ返還され、マカオを特別行政地区にすることになったのでした。
世界遺産登録の経緯
マカオ歴史地区は、450年間続いたヨーロッパ人居住地と国際貿易の拠点として、現代に歴史を残しています。また、ポルトガルの統治下の中で育まれた東洋と西洋の文化の融合は、現代にも受け継がれ不思議な魅力を生み出しています。
このように、東洋と西洋の歴史・文化的繋がりの源泉を示す地域として、2005年世界文化遺産に登録されました。
必見ポイント
聖ヨセフ修道院
聖オーガスティン広場に面している聖ヨセフ修道院は、1728年にイエズス会によって建設されました。宣教師育成を目的として建てられましたが、後に中国や日本、アジアでの宣教活動の拠点となっていきます。
建築は中国を代表するバロック建築です。天井には「IHES」とイエズス会のシンボルが刻まれていて、またフランシスコ・ザビエルの上腕部の遺骨も安置されています。
聖ポール大聖堂
聖ポール大聖堂は1602年ポルトガルのイエズス会によって建設された当時アジア最大の教会です。現在は1835年の火災により、ほとんどが焼け落ちてしまったため、石造りのファサードと68段の階段が現存しています。
石造りのファサードは、中国の伝統的な碑に似ていることから「大三巴碑坊」と名付けられました。高さ約27m、広さ23.5mのバロック式の建築は、マカオのシンボルとして親しまれています。
国名 / エリア | アジア / 中華人民共和国 |
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登録年 | 2005年 |
登録基準 | 文化遺産 (ii) (iii) (iv) (v) |
備考 | ■関連サイト Historic Centre of Macao(UNESCO) |