延暦寺

Hieizan Enryakuji

延暦寺

延暦寺の概要

延暦寺(えんりゃくじ)は、京都と滋賀の県境に位置する標高848mの比叡山全域のことを指します。東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の3つのエリアがあり、それぞれに本堂があります。最澄により開創され、仏教の総合大学として活躍し、多くの僧も輩出してきました。さらに、平安仏教の中心として、庶民だけではなく皇族や貴族の支持も得て大きな力を持っていました。1994年には世界文化遺産に登録され、「古都京都の文化財」の構成資産の1つとなっています

京都 金閣寺
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延暦寺の歴史

延暦寺
Enryaku-ji by jpellgen, on Flickr

780年に出家した15歳の最澄は、その5年後に比叡山に小堂を建て、修行と経典研究を行いました。20歳には奈良で受戒し正式の僧になり、法華経の教えを最高のものとしました。延暦寺は、最澄がその後、一乗止観院と名付けられた小規模の寺院を建設したことから始まっています。

802年には最澄は唐に渡り、そこで天台教学・戒律・密教・禅を学びました。帰国後は学んだ教えを広め、806年には日本天台宗を開きました。こうして、東寺の真言宗の密教は東密、延暦寺の天台宗の密教は台蜜と呼ばれるようになり、延暦寺は大きな力を持つようになります。最澄はその後、奈良の旧仏教から独立し、比叡山独自の大乗戒壇(僧育成所)の設立を求めていましたが、残念ながら存命中は叶いませんでした。最澄没後の7日目に弟子の義真が天台座主として後を継ぎ、さらに1年後、これまで一乗止観院と呼ばれていた旧名は、当時の年号から「延暦寺」と呼ばれるようになりました 。

西塔は第2世天台座主だった円澄に、横川は第3世天台座主の円仁によって造られました。こうして、10世紀には現在の延暦寺のできあがりが見られました。しかし、その後延暦寺では宗派が分かれるようになり、争いが起こり始めます。次第にその勢いは増し、僧兵が現れるようになり、南都北嶺(南の奈良の興福寺と北の比叡山延暦寺)と恐れられるようになりました。

1400年代の室町時代以降、延暦寺を制圧しようとする将軍が度々現れ、延暦寺は何度も焼失しました。最初の出来事は1400年代中頃で、室町幕府の6代将軍・足利義教(よしのり)が延暦寺を制圧しようとし、制圧反対の声を挙げていた僧たちを斬首しました。その後、勢いを抑えなかった義教への反発が強まり、僧らが根本中堂に立てこもり焼身自殺を図りました。

1400年の終わりには、10代将軍の足利義稙(よしたね)と11代将軍・足利義澄(よしずみ)の間で政権争いが起こり、室町幕府の管領・細川政元が義澄を擁護しました。このとき延暦寺は義稙側につきましたが、直後に政元の攻撃により再び焼失してしまいました。

焼き討ちとして知られる延暦寺の出来事は、1500年の中頃に起こります。当時、織田信長と朝倉義景・浅井長政の間では争いが続き、延暦寺は後者側でした。信長はそれに対し、延暦寺に対し彼らから手を引くように要請しましたが、延暦寺がそれに応じることはありませんでした。その結果信長は延暦寺を包囲し、建物を焼くだけではなく僧や女性、子どもを含め、大勢の人々を攻撃しました。こうして、焼失してしまった延暦寺は信長の死後、徳川家光により再建されました。

延暦寺の見どころ

延暦寺はそれぞれに本堂がある東塔、西塔、横川の3塔に分かれていています。それぞれエリアごとの見どころを見てみましょう。

東塔

根本中堂

延暦寺 根本中堂
比叡山延暦寺 – Enryaku-ji by Tamago Moffle, on Flickr

東塔の中心は根本中堂で、788年に最澄が設立した一乗止観院が元になっています。織田信長の焼き討ちがあったため、現在の根本中堂は徳川家光によって建てられました。本尊・薬師如来像の前には「不滅の法灯(ほうとう)」が3基あり、灯り続けています。

これは、全ての人々を救うという最澄の志が、これまで1200年もの間守られてきた証となっています。根本中堂は、「仏凡一如」(仏も人もひとつ)の考えから、仏像や法灯が参拝者の目線の高さにあることが特徴です。

大講堂

延暦寺 大講堂

大講堂は重要文化財に指定されていて、学問研究や僧の養成などの修行の地として使われてきました。828年に最澄により建設されたものの、その後の争いにより焼失し、さらには昭和31年にも火災が起こり、多くの仏像も焼失しました。現在の大講堂は昭和39年に山麓坂本の讃仏堂(旧東照宮本地堂)を移築したものとなっています。

大講堂は入口近くの外陣と奥の内陣に分けられています。内陣には本尊の大日如来をはじめ、この地で修行した多くの宗祖の木像が、外陣には釈迦を始めとして仏教・天台宗ゆかりの高僧の肖像画が祀られています。

国宝殿

国宝殿へは有料で入ることができ、仏像をはじめ、多くの仏画や書跡などの国宝・重要文化財が展示されています。常設展では、9世紀の千手観音菩薩立像や10世紀の多聞天立像・広目天立像などを見ることができます。その他数多くの仏像や書物があるため、定期的に入れ替えが行なわれています。

西塔

転法輪堂(釈迦堂)

延暦寺 釈迦堂
Shakadô by Julien, on Flickr

最澄により建てられたこの転法輪堂(釈迦堂)は西塔の本堂で、延暦寺では最古の建物となっています。信長による焼き討ちがあったため、現存する釈迦堂は、1595年に豊臣秀吉が園城寺の金堂を移築させたものです。根本中堂と同じく、内陣の仏像は目線の高さにあります。

にない堂

延暦寺 にない堂

2つの同じ形をしたお堂が廊下で繋がっています。左側のお堂は、阿弥陀如来を本尊とする常行堂、右側は普賢菩薩を本尊とする法華堂です。弁慶が渡り廊下を使って2つのお堂を担いだという言い伝えから、「弁慶のにない堂」と言われています。

横川

横川中堂

延暦寺 横川中堂

横川の中心で、848年に円仁により根本観音堂として建てられました。信長の焼き討ちや1942年の落雷により焼失しましたが、1971年に鉄筋コンクリート造で建て直されました。本尊として安置されている聖観音菩薩は、数々の火災の難を逃れてきた貴重な仏像となっています。

元三大師堂(がんざんだいしどう)

延暦寺 元三大師堂

967年に村上天皇の勅命により建てられ、元三慈恵大師の住居として使われていました。また、四季講堂とも呼ばれ、法華経が四季ごとに論議されていました。現代のおみくじは元三慈恵大師から始まったとされています。


備考 古都京都の文化財」の構成資産

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