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秦の始皇陵(秦始皇帝陵及び兵馬俑坑)の概要
秦の始皇陵(秦始皇帝陵及び兵馬俑坑)は、中華人民共和国の陜西省西安市から東に位置する臨潼県に所在する、中国の初代皇帝・秦の始皇帝のお墓とその副葬抗です。当時、陵の高さは76mで、地下には宮殿がありました。陵の周りには400以上の副葬墓、5万点余りの重要な歴史文物が出土するなど、秦の始皇帝が絶大な権力を保持していたことが分かります。
秦の始皇陵(秦始皇帝陵及び兵馬俑坑)は、1987年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。
世界遺産登録の経緯
秦の始皇帝は、紀元前259年に誕生し、13歳で秦国の王座につきました。7つの国が覇権を争っていた時代に周辺諸国を破り、自らを始皇帝と名乗るようになりました。圧政による中央集権化を進め、文字や貨幣制度、度量衛の統一も行いました。知識人への弾圧や、焚書を行ったことでも知られています。
始皇帝は中国を統一した後すぐに陵墓の造営を始め、70万人の労働力と紀元前246年から紀元前208年の長期にわたる歳月をかけて造りました。陵は兵馬俑抗の西約1.5kmの場所にあり、周囲25km、高さ100m以上、地下は30mも掘り下げられ、ピラミッド型で造られましたが、今はその跡が残るのみとなっています。陵墓の地下宮殿の真中は、始皇帝の棺を納める場所となっています。
兵馬俑
兵馬俑は、1974年、西安の東北で井戸を掘っていた農民により、陶器の破片を発見した事をきっかけに見つけられました。1号兵馬俑抗の発見後、始皇帝陵の周りに2号抗、3号抗と発見されました。最大規模である1号抗からは歩兵隊が、2号抗からは戦車や歩兵、騎兵の俑が、3号抗からは位の高い将校の俑が見つかるなど、8,000体の兵馬俑が見つかっています。
兵士の俑は、身長約1.8m、重さ約200kgあり、同じ顔をしたものはなく、顔料で彩色されていたことが分かっています。指揮官や騎兵、歩兵など軍団を組織しており、兵馬俑の軍団は全員東の方角を向いている事から、秦の始皇帝を死後の世界でも守るために地下に配置されたものとみられます。宮殿のレプリカや文官なども発見されており、生前の生活を来世へ持っていこうとしたとも考えられています。
兵馬俑抗は、現在発掘されているものの他にも、未発掘のものが多くあると考えられますが、発掘の際に兵馬俑に塗られた顔料が消える可能性を考え、まだ発掘が進んでいません。
秦の始皇陵(秦始皇帝陵及び兵馬俑坑)は、人類の創造的才能を表現する傑作であり、文化的伝統又は文明の稀な証拠です。また、人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積であり、顕著で普遍的な意義を有する出来事や伝統、思想、信仰と明白に関連するものであるとして、1987年、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。
観光のポイント
兵馬俑博物館
兵馬俑博物館は、秦の始皇帝陵から東に1.5kmの場所に位置しており、1号抗、2号抗、3号抗、秦始皇帝銅車馬陳列館に分かれて当時造られた姿をそのままに見学する事が出来ます。
兵馬俑1号抗は、1974年に農民に発見された俑抗で、長さ230m、幅62m、深さ5mなど、兵馬俑抗最大の面積を誇ります。陶俑、陶馬が約6000体以上、40台以上の木造戦車がある主力部隊です。
兵馬俑2号抗は1976年に発掘され、1号抗の北約20mの場所に位置します。騎兵、車兵、射兵が並び、4つの部隊から構成され、4番目の部隊は戦闘態勢で造られています。
3号抗はわずか68体から成る最小規模の大きさであり、そのほとんどが将校であることから、司令部であると考えられます。会議や占いの場所などもある事が分かっています。 銅車馬陳列館は1980年に陵墓の西20mの場所で発見され、豪華絢爛な青銅馬車が2台展示されています。
国名 / エリア | アジア / 中華人民共和国 |
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登録年 | 1987 |
登録基準 | 文化遺産 (i) (iii) (iv) (vi) |
備考 | ■関連サイト Mausoleum of the First Qin Emperor(UNESCO) |