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大浦天主堂の概要
大浦天主堂は2018年に世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連資産」に登録された構成資産のひとつ で、長崎市内のかつての外国人居留地・南山手に建つカトリック教会です。開国頃の洋風建築初期の代表作のひとつに数えられている貴重な建築物となっています。1864年創健。1945年には長崎への原爆投下によって屋根やステンドグラスなどが破損されましたが、被爆中心地からは5kmほど離れていたため全壊は免れました。修復には5年間かかりました。
大浦天主堂の歴史
大浦天主堂の正式名称は「二十六聖殉教者聖堂」で、開国後にフランス人のための礼拝堂として建てられ、1862年に聖者に列せられた二十六の殉教者たちへと献じられたのでした。大浦天主堂は西坂の二十六聖人殉教 の聖地に向けて建てられています。
二十六聖殉教者とは
1596年、フランシスコ会の過激な伝道などを理由に、豊臣秀吉はフランシスコ会やイエズス会の宣教師および信徒24名を逮捕して長崎へ送り、途中で加わった2人とともに処刑しました。現在の長崎駅に近い西坂公園となっている場所で十字架にかけられて26人が処刑された後もキリスト教活動は続き、ついに徳川家康は1612に禁教令を布きます。高山右近などのキリシタン大名はこれによりマニラやマカオに永久に国外追放され、そして1637年の島原の乱をへて潜伏キリシタンが250年におよぶ独自の信仰生活に入っていきます。
1865年、信徒発見
開国後の1862年、殉教者26名はピオ教皇9世により聖別され、1864年には大浦天主堂が完成して殉教者に捧げられました。天主堂を見物に訪れた人のなかにいた浦上の潜伏キリシタンが信仰を神父にそっと打ち明けたことは、失われたと思われていた日本での信者発見として大きなニュースとなり、喜びのニュースはローマにも書簡として送られました。しかしこの信者発覚でキリシタンへの弾圧が再開され、これに対するヨーロッパ各国の猛反発を受けたことから、キリシタンが黙認されることとなりました。
こうした流れで、長崎各地で信仰の表明として教会の建設が進められるなか、大浦天主堂はその後も長崎のカトリック教会の中心となり、1962年まで司教座聖堂としての役割をになってきました。
大浦天主堂の見どころ
長崎は東京に次いで日本で2 番目にカトリック信者が多い土地であり、大浦天主堂は波乱に満ちた長崎の歴史を信者とともに150年間を歩んできました。その貴重な建築や装飾は創建当時の天主堂の様子を伝えており、いまも長崎のシンボル的な存在として親しまれています。
日本で唯一の小バジリカ
大浦天主堂はレンガ造りに漆喰を塗りこめたゴシック様式の教会です。ステンドグラスは1864年の創建時にフランスの修道院により寄贈されものは原爆で破壊されました。現在のものは新しくフランスにて制作されたものです。
また、大浦天主堂は「小バジリカ」との称号を与えられた日本で唯一の聖堂でもあります。このことは信仰活動の中心としていまもなお重要な精神的、物理的役割を果たしていることを表しています。
信徒発見のマリア像
天主堂の小祭壇のマリア像は「信徒発見のマリア像」と言われています。創建時にフランスより運ばれてきたもので、「信徒発見」の際に潜伏キリシタンが探し求めたマリア像でした。「信徒発見」の出来事は、当時の教皇ピオ9世が「東洋の奇跡」として賞賛したというほど重要なものでした。このマリア像は、今日まで150年もの月日を天主堂と信者とともに歩んできた歴史の証人ともいえましょう。
鐘楼
創建当時にフランスの信徒によって寄贈されたフランス製の鐘楼です。大浦天主堂とともに天災や原爆をくぐり抜け、時代が変わったいまでも当時と同じように鐘の音を響かせてくれています。
備考 | 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産 |
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