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姫路城とは
姫路城は日本の兵庫県姫路市にある城で、国宝や重要文化財にも指定されています。1993年には日本初の世界文化遺産に登録されました。
姫路城は天守全体が羽を広げた白鷺の様に見えることから、白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)と呼ばれています。
世界遺産登録の経緯
評価されたポイントは2つあります。1つ目は日本の木造建築の中で美的完成度が高く、世界的に見ても優れている点です。白い漆喰が用いられた優雅な外観と建築物の配置が素晴らしいことが理由として挙げられます。
2つ目は天守を初め、櫓、土塀、石垣などの17世紀初頭の建築様式が良い状態で保存されており、当時の日本の城郭構造を表していることです。石落としや狭間などの要塞としての要素が城内の至るところにあり、時代背景を物語る景観が今なお残っていることが高く評価されました。
姫路城の歴史
姫路城は歴史上の有名人たちとゆかりのある城です。今の姫路城の原型は江戸時代に池田氏が築いたものですが、最初に建てたのは通説では赤松貞範とされています。ところが、近年の研究では城と呼べる状態にしたのは、黒田官兵衛の祖父と父ではないかと推定されています。
姫路城で生まれた官兵衛は、後に豊臣秀吉に仕え、毛利攻めに備えて姫路城を拠点にする様に進言しました。秀吉は元々あった城を3層の天守を持つ姫路城に改良しました。昭和30年代の解体修理の際に、秀吉時代の石組みと礎石が発見されており、現在とほぼ同じ場所にあったことが確認されています。
関ヶ原の戦い後、池田輝政によって大きな天守と小さな天守が結ばれた連立天守を持つ姫路城が新たに造られました。堀が3重にめぐらされ、武家屋敷や城下町も含めて外周を囲う総構(そうがまえ)式の城でした。
明治政府により、姫路城の存続は決まりましたが、陸軍の訓練の場として使用され、徐々に姫路城は荒廃していきました。その中で、中村重遠大佐が山県有朋に補修を訴えたことで、姫路城の“保存”に目が向けられる様になりました。
その後、地元の人々に愛され、第二次世界大戦時の戦火を免れました。空襲が夜にあると白い姫路城は目立ち、攻撃の的になると心配した地元の住民によって、城壁が黒い布で覆われたのです。戦後、昭和と平成の大規模な修理を経て現在に至っています。
姫路城の見どころ
日本最大の大天守
国内で現存する天守は12城ですが、その中で一番大きいのが姫路城です。内部構造は地下1階から6階までとなっています。また、大天守の周りにある3つの小天守は、それぞれ方角を示した名称で、東小天守・乾小天守・西小天守と呼ばれています。
さて、本題の大天守ですが、地上階では武具掛けや石落としなど、戦を意識した仕掛けを見学することが出来ます。また、地下には籠城に備えた流し台が今でもあります。
また、歴史が垣間見える場所もあります。大天守には“心柱”と言われる太い柱が東西に計2本あり、横揺れを防いでいます。東の柱は築城当時のままですが、西の柱は昭和の大修理で取り換えられました。
このとき、西の柱にも東の柱と同様に、通し材を使用する予定でしたが、運搬の途中で折れてしまい、笠形神社のご神木に接ぎ木しました。その時の継ぎ目を3階で見ることが出来ます。
最上階に上ると、フロアの一角に刑部神社があります。この神社には、宮本武蔵や江戸時代に城主になった池田輝政と関係するエピソードが。いずれも、豊臣秀吉が城を建てた際に、この地にあった刑部神社を移転したことが発端とされています。
戦いを意識した菱の門
城内で最大の門である菱の門の由来は、冠木にある菱の紋様です。一見、安土桃山時代の意匠が施されて優雅ですが、二の丸の入り口に位置しているため、有事の際を想定した造りになっています。
菱の門の手前で道が直角に曲がっており、敵の勢いを落としたところで、上から攻撃する仕組みになっています。
千姫が暮らした西の丸
池田氏の後に城主になった本多忠政の長男・忠刻に、徳川秀忠と江の娘である千姫が輿入れします。婚姻にあたり幕府から10万石の化粧料を付与され、その土地を利用して西の丸が造営されました。
西の丸には、女中が控えたとされる長局(百閒廊下)や化粧櫓があります。千姫はその廊下から男山に建立した天満宮を拝んだと言われています。現在は、姫路城の歴史に関する品々が展示されています。